【たいら由以子 地球にいいことの始め方-台所から始める、循環させる暮らしー父の命が教えてくれた、食べものの本当のちから】

この地球はありとあらゆる生物を載せて(いや、正確に言えば引力で引っ張って)回り続けていますが、人類ときたら植物も含めた他の生き物に多年にわたり迷惑をかけ続けた挙句、自分たちの生息環境すら危うくしています。
私たち人類がどんな勝手なふるまいをしようが、地球はただ回っているだけ。
だから「地球にいいこと」って、つまり「生き物の環境にとっていいこと」なのです。
その「いいこと」、そろそろ始めてみませんか?
そのやり方、楽しさを今月からたいら由以子さんに教えていただきましょう。

撮影/原 幹和
イラスト、タイトル文字/たいら由以子

みなさん、こんにちは。

たいら由以子です。ローカルフードサイクリング(LFC)株式会社の代表を務めています。1997年からずっと、「暮らし」と「土壌」の改善をつなぐため、コンポスト活動を継続中です。「台所から社会を変える」なんて、大げさに聞こえるかもしれません。でも、私は25年以上、この小さな循環に向き合ってきました。

まず、私がこの活動を始めたきっかけからお話ししましょう。

私は子どもの頃から目立たない子でしたし、結婚してからもごく普通の主婦でした。
そんな私の人生が動き出したのは、1996年、大好きな父に「余命3ヶ月」という言葉が告げられた時からです。

時間だけが迫る中で

余命3ヶ月を言い渡されてから1ヶ月間、私はどうしよう、どうしようと悲しみ、苦しみ、なす術もないまま、もがき続けました。何もできない苦しさの中、時間だけが迫ってくる。そんな中、大学時代一緒に栄養学を学んだ友人が、一冊の本を持ってきてくれました。「間に合わないかもしれないけど、食養生で穏やかに過ごせた人がいるの」と。私はその本を読み「一緒にこれをやりたい」と、父に本を渡しました。父も一晩でその本を読んでくれました。

今でも不思議なんです。普段は私の言うことなどあまり聞かない父が、なぜあの時だけ私の提案を、私の目を見て何も言わずに受け入れてくれたのか。
翌朝、父は「家に帰ろう」と言い、私たちは退院を決めました。

「ローカルフードサイクリング」のロゴマーク。

無農薬の野菜を探して

家に戻って始めたのは、無農薬の玄米菜食で、それはかなり厳密なものでした。
青泥と呼ばれる、ケールや大根、人参をすり下ろしたもの、味噌汁と玄米ご飯。同じものを毎日3回作るんです。素材が勝負だから、無農薬の野菜でなければならない。
でも、その無農薬の野菜が手に入らない。
当時、自然食品店を回っても、どれも高価で、それ故に売れなくて、鮮度が落ちているものも多かったのです。生まれたばかりの娘を背負って、福岡市内を探し回りました。独身時代の貯金も使い果たしてしまうくらい、かなりの出費にもなりました。

そんなギリギリのところで、なんとか続けているうちに、口コミで野菜を送ってくれる農家の人にも出会え、自分で家庭菜園も始めました。

毎日同じ食事を続ける

この食養生は、冷たいまま食べるんです。味付けもほとんどしません。そのメニューを毎日3回作るんです。

調子のよい時は10分ほどで食べ終わるのですが、体調がすぐれない時、特に冬には、冷たい食事を一さじ一さじ、1時間以上かけて食べることもありました。本当につらかったと思います。それでも父は、黙々と食べ続けました。
味噌汁には味をつけますが、使える味噌の量は限られているので、少し濃いめに感じられるように、水分量を半分にしたり。そういう足したり引いたりの工夫をし続けました。

たいらさんのローカルフードサイクリングの東京事務所は、池尻大橋の、中学校跡地にある複合施設「HOME/WORK VILLAGE」にあります。

父の顔色が変わった

きっと「これをやろう」と一緒に方針を決めたことで、父は吹っ切れたんだと思います。ゴールがはっきりしたから、余計な雑念がなくなって「食べることが仕事」と覚悟を決めたように見えました。
やがて、父の顔の色が変わってきたんです。

土気色だった肌が、半月も経たないうちに血色を取り戻し始めました。細胞は28日で入れ替わるといいますよね。1ヶ月でかなり変わり、2ヶ月、3ヶ月と続けると、本当に別人のようになっていきました。血液検査の数値も良くなっていきました。
不思議でした。
余命3ヶ月と言われた父は、2年間、自分らしく暮らしを楽しむことができました。散歩に出かけ、趣味の映画を見て、ライブにも行きました。父にとって、そして家族にとって、かけがえのない時間でした。

父の手帳に残された言葉

父が亡くなった後、残された手帳には「娘が捨て身で看病をやっていることを、誇らしく思っている」と書かれていました。そして、最後のページには「俺の死を悲しむな」と。

私の家は仏教で、その教えでは、現世が一番つらい場所です。赤ちゃんは泣きながら生まれて、苦しい現世を生きて、亡くなるときは笑いながら逝く。そういう教えの中で育った父だから、この言葉を残したのだと思います。
父なりの、愛情の言葉でした。

この経験から学んだこと

栄養学を学んでいた頃、先生から「医食同源」という言葉をずっと聞いていました。「栄養士はその知識と技術を磨いていくと医者と一緒だ」と。でも、その本当の意味がわかったのは、父の病気と命に向き合い、何年か経ってからでした。人の体と、その新陳代謝と、食べ物の関係。それが、こんなにも直接的に命に関わるということ。これが医食同源なのだと。

もちろん、食事だけの力ではなかったと思います。父の前向きな気持ち、家族の絆、そして何より、父が「これをやる」と決めた覚悟。それらすべてが重なって、あの時間が生まれたのだと思います。急がず、焦らず、ただ丁寧に食事を作り続けた日々。その繰り返しの中に、確かな希望がありました。

私が大切にしていること

この経験は、その後の私の人生を大きく変えました。

食べものがどこから来るのか、どんな人が作ったのか。それを知りたいと思うようになりました。子どもたちには、安心できる食事を食べさせたい。その思いが、いつしか自分で畑を始めることにつながり、生ごみを土に還すコンポストへとつながっていきました。
父との日々で学んだのは、「待つ」ことの大切さでした。焦らず、ただ丁寧に、毎日同じことを続ける。コンポストも同じです。生ごみを入れて、混ぜて、待つ。微生物の働きを信じて、待つ。そして、変化を楽しむ。

台所から始める循環

生ごみが土に還り、野菜が育ち、また食卓に上る。半径2キロという、主婦の生活圏で完結する小さな栄養の循環の中に、確かな豊かさがあります。父との日々が教えてくれたのは、食べものが体を作り、命を支えているということ。
そして、毎日の小さな積み重ねが、人生を変えるということ。
食べものを大切にすること。その食べものがどこから来て、どこへ還るのかを知ること。それは、命と向き合うことであり、自分の暮らしを見つめ直すことでもあります。

台所という、誰もが持っている場所で、誰もができること。それが、私たちの暮らしを、少しずつ変えていく。私は、そう信じています。

壁のイラストもみなたいらさんが描きました。素晴らしい才能!

●著者紹介
たいら由以子(たいら ゆいこ)さん
福岡市生まれ。大学で栄養学を学んだ後、証券会社に入社。結婚後に地元の福岡に戻り、父親との別れをきっかけに「栄養循環」を半径2㎞単位で作ることで持続可能な食の仕組みを構築することを決意。1997年よりコンポストの普及とコンポストの人材育成事業を展開する。ローカルフードサイクリング株式会社代表、LFCコンポスト代表を務める。

●たいらさんの新刊「おいしい循環」をご紹介しています。ぜひご覧ください。